部分又は 写真をクリックすると、拡大写真がご覧いただけます。
幕末明治初期の漁法を
見事に伝える芸術作品
弓浜半島の伝統的な漁法を生き生きと伝える貴重な絵馬。上部に大山と弓浜半島の全景を描き、中央部には2艘の船を配置、船上で指揮を執る船頭、海辺で網を引く勢子、魚を捕る人、見物する人など、杉板に彩色で見事に描かれている。
少子高齢化社会となり、お墓の継承者にお困りの方々に代わり、菩提寺が永代にわたってのご供養をお約束し、正福寺13世住職就任記念事業として平成18年 境内地に永代供養塔を設置。
妖怪漫画の巨匠水木しげるさんの偉業と、傘寿を記念して水木しげるさんを魅了した正福寺境内へ、平成十四年二月、水木プロによって碑が設置された。
兆殿司(明兆1352〜1431)は室町時代初期の画僧。京都東福寺の殿司の役にあったので兆殿司といわれた。
龍を描けば天に飛び、不動明王を描けば火焔が燃え立つと言われる強い筆致が特徴で、当山には兆殿司作といわれる赤達磨一幅が寺宝として伝わっている。
医学と教育に尽くし
比類なき業績を残した英賢たち
景山家は江戸後期寛政年間以降、代々医家であった。初代立碩(りゅうせき)は京の木島氏に医を学びその名声は広く聞こえていた。二代粛は私塾を開き、幕末の・明治維新に多くの志士を輩出。富田織部、門脇重綾、佐善元立、今小路範成、松本古堂等があげられる。三代龍造は京の三条実万(さねつむ)に仕え鳥取藩学館教授となる。四代道遠は境郷校開校初代校長。
鐘楼門前に地元の俳人一仙堂蘭石の造立した自然石の芭蕉句碑がある。「梅が香にのっと日の出る山路かな 翁(芭蕉)蘭石敬書」。
「梅が香に」の句は芭蕉らの句集「炭俵」にのっている。この句碑の裏に、「辞世、紅葉にもならで落ちたる一葉かな 一仙堂」の句も刻まれている。蘭石は当時弓浜きっての俳人として、同志の尊敬を受けた。
蘭石は一仙堂ともいう。竹内の人、足穂平右衛門である。文化14年9月没した俳人。
高さ20m 樹根周辺2.5m 樹齢280年(※平成3年9月倒木)
享保の頃当寺の二世真源祖淳和尚が、修行した大本山永平寺から苗木を持ち帰り植樹。飢饉と農民一揆が続発したこの時代、遠い北の国からもたらされた榧の木には、和尚の郷民済度の熱い思いが込められていたことだろう。
平成3年9月の台風19号により主幹が倒れ、市指定文化財ではなくなったが、榧の木の一部は残り、境内に新しい芽が育っている。